役行者と修験道

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修験道の歴史と役行者
はじめに
修験道界では来る平成十二年は、高祖役行者(役小角役行者は尊称)の没後
一三〇〇年にあたるとされ、御遠忌が予定されている。とくに本山修験宗(総本
山聖護院)、真言宗醍醐派(醍醐三宝院)、金峯山修験本宗(金峯山寺)の修験三
教団はそれぞれで独自の御遠忌法要を営むと共に、八月二十七日には山上ヶ岳
大峯山寺で三本山合同法要を企画している。それに先立って、広く一般の人々に
修験道役行者について知っていただくよすがとして「役行者修験道の世界」
と題する特別展が開催されることになった。
役行者の御遠忌は元禄十二年(一六九九)六月にその終焉の地とされる摂津の
箕面山で、聖護院が一〇〇〇年忌を行なったのが最初である。その後、寛政十一
年(一七九九)には役行者神変大菩薩諡号が授けられ、それを寿いで箕面山
で聖護院が、山上蔵王堂(現大峯山寺)で本・当両派及び吉野一山が、合同で一
100年の御遠忌法要を営んでいる。その後嘉永三年(一八五〇)に一一五〇年、
明治三十三年(一九〇〇)に一二〇〇年の御遠忌がいとなまれた。この両度には
山上の役行者像が吉野山で開帳されている。また一二五〇年忌(昭和二十五年 =
一九五〇)には聖護院が、大峯山中で深仙灌頂を開壇した。
周知のように、修験道は日本古来の山岳信仰が外来の仏教・道教などの影響の
もとに平安時代後期頃に一つの宗教形態をとるに到ったもので、山岳修行とそれ
によって得られた験力を用いての呪術宗教的活動を中核としている。これに対し
役小角は『続日本紀』の文武天皇三年(六九九)の五月二十四日の条に「役君
小角を伊豆島に配流した。小角は葛城山の呪術者だったが、その呪力をねたんだ
弟子の外従五位下韓国連広足が妖しい言葉で人をまどわしていると誤言したので
遠流された。世間では小角は鬼神を使役して水を汲み薪を採らし、命令に従わな
い時は呪縛したと噂した」と記されている宗教者である。

宮家 準

このように役小角修験道成立以前の呪術宗教者で、後に修験道成立後、その
高祖に仮託されたのである。換言すれば、役小角修験道を創唱した教祖ではな
く、逆に修験者たちによって理想的な行者に相応しい宗教者として創り出された
教祖なのである。そこでこの総論では修験道の歴史のなかで、役小角が高祖とさ
れていく経緯をあとづけることにする。そして修験者が理想的な修行者として崇
めた役行者の伝承の展開を通して修験道の信仰を考えることにしたい。


一、修験道の成立と役優婆塞(えんのうばそく)

我国では古来山岳を神霊のすまう聖地として崇め、山麓に神社を設け、山の神
を勧請してまつることが多かった。これが神道のはじまりである。その後、外来
道教や仏教の影響で山岳に入って修行する宗教者が現われた。山麓蘇我氏
始め渡来人が多かった葛城山、飛鳥に近く仙境とされた吉野などは代表的な霊山
である。葛城山では役小角行基(六六八〜七四九)、道鏡(七七二年没)が修
行した。このうち役小角に関しては、弘仁十三年(八二三)頃に成る景戒の「日
本霊異記』(図例参照)には、「葛城上郡茅原村の高賀茂氏の役 優婆塞が葛城の
厳窟に籠もって修行し、孔雀明王の呪法を用いて鬼神を使役した。そして葛城の
山神を使って葛城山と金峯山の間に橋をかけさせようとした。これに対して葛城
山の一言主神が人にのりうつって役優婆塞が天皇を滅ぼそうとしていると認言し
た。天皇は母を囮にして彼を捕らえて伊豆島に配流した。役優婆塞は伊豆では、
昼は島に留まったが夜は空を飛んで富士山に行って修行した。三年後の大宝元年
(七〇一)に許されたが、仙人となって飛び去った。その後新羅で道昭が五百匹
の虎に法華経を講じた時に、その中に役優婆塞がいた。一方一言主神はいまも役
優婆塞に呪縛されたま、である」との話をあげている。なお役優婆塞の呼称は役
小角が在俗の私度僧であったことを示している。

 

後で抽出確認するが 精度は悪くないはず!!