柿本神社/影現寺 ww
我が大字は 旧名北葛城郡新庄町大字柿本 です。
で 氏神さまになる神社が 柿本神社/影現寺です。地元では人麻呂さん!!
柿本人麻呂ゆかりの神社/寺になります。
人麻呂生誕地だとかの話も噂ではあるようですが・・・生誕地ではなく一時期この地に住まいをしていたようです。柿本人麻呂ゆかりの神社は 奈良県天理市、兵庫県明石市、島根のどこだったか?忘れたがあるようです。生誕地/終焉地としては 明石か島根が有力のようです。(あまり興味はないww)
で我が大字の人麻呂さんですが 近鉄新庄駅の真西にある葛城市市役所とに挟まれる格好であります。この奥に見える森が柿本神社!
尺土行ホームから ほぼこれに近い画像なら撮影可能!(笑)
由緒書の沿革概要には下記の記載が!!
柿本山 影現寺は、済衝二年(西暦八五八年)に弘法大師空海の直弟子である真済上人によって開かれた十一面観音菩薩を本尊とする高野山真言宗の寺院です。元来この地には、影現寺の創建前から、柿本人麻呂を祀る柿本神社があり、一説には真済上人は柿本人麻呂と又従兄弟の関係にあると言われており、苦難の人生を歩んで来たと思われる柿本人麻呂を弔うために、また、神格化された柿本人麻呂を祀る柿本神社を護る神宮寺として建立されました。
柿本神社の周辺地域は、持統・文武朝(六八七~七七)時代に「万葉集」最高の歌人と賞された柿本人麻呂が持統天皇から領地を賜って居住した所という言い伝えがあり、石見国で死去した人麻呂を、宝亀元年(七七0年)この地に改葬し、その傍らに「人麻呂堂」と呼ばれた神社を建立したと伝えられています。
拝殿の南側の「柿本太夫人麻呂之墓」と刻まれた石碑は、江戶時代播州明石から転封となった大和郡山藩主松平信之が天和元年(一六八一年)建てたものです。当山では開創以来、数多くの高僧を輩出し、その中には、梵字悉曇の慈雲流で高名な慈雲尊者も当寺院に逗留し修行をしたと記録に残っております。
本堂は17世紀後半に再建されたもので、薬医門、鐘楼も幾多の天災や、火災による焼失などを経ることになりましたが、その都度歴代住職大徳の御精進と、地元の信者様方の温かい支えにより、その都度再建頂くと言う信仰の厚い寺院であります。
寺名の影現寺の「影現」の意味するところは、仏、菩薩が衆生を済度するために来臨されることを指すとお経に記されています。
柿本人麻呂の歌碑! 春柳 葛城山に立つ雲に 立ちても居ても 妹(いも)をしぞ思う
神社本殿
本殿横奥にある 柿本人麻呂の墓碑(石見で死んだ人麻呂の改葬だから墓碑でいいのかな??)
そして この鐘楼横に垣根で囲ってあるのが 境内名では「筆柿」だが 我らの幼少時の呼び名は 「ちんぽ柿」
このちんぽ柿 同名で明石の柿本神社にもあり同じ品種と思うのだが(行ったことはないが写真等で見る限りだが)
筆柿の名は後につけられたものだと思われる・・・・ w。
珍宝柿と呼ばれる 愛知額田郡の柿も別途筆柿と呼ばれてるようだが
自分にはこの柿と 境内(明石のも含む)ちんぽ柿とは別物に思える。
境内のは 親指の先ほどの大きさ程度しかない。 額田郡のは 掌に収まるような大きさ(土地との相性から これくらいの大きさの違いが出るのだろうか????)
影現寺正面
柿本神社上面にある 36歌仙の扁額